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攻略系のグループ、考え方の方向とか

とにもかくにも、人がいない!😨

 

って嘆くのは簡単なんだけど…、そもそも方向性を決めて呼びかけって誰かしてたかな???

と、中の人は気づいてしまったのです。

 

あ、こんばんにちは。マスターの中の人です。

 

 


今回のテーマというか、課題。👇


 

「 そもそもオンラインゲームって

   人がいないとできること狭まりますよね? 」

 

というお話に対する『中の人』からのアンサー。

 

それが『グループを発足する』という結論に至ったんだけど、

なんでチームじゃなくてグループか? とか、その方向性について解釈を交えてお話していきたいと思います。

 

 

たぶんくっそ長くなると思うので(いつものことw)

気が向いたら読んでもらえると嬉しいですw

 

じゃ、早速だけど話を進めます。

 

おそらくね? 人がいない――面白くない! からの切り口って、

運営批判とかそっち方面での話になりがちで問題の本質を見逃してしまうことが多々あるよね?

いや、そこに問題がないという話じゃないよ?

 

話してる要点、そこじゃないんだわ…って事ですよ?

運営批判的な話始めるとどんどん横道に逸れていくしね…。。

 

なのでズバッと行きますケド、、、

 

そもそも人の楽しいって、

誰かから与えられるものだけだったかな?

 

そもそも遊びって自分で創るものじゃなかったかな? 

 

ってお話。

 

たぶんね、これはジェネレーションギャップ的な問題も絡むんだとは思う。

というより認識の違いかな? あとは遊びに対する捉え方もありそうだね。

 

だけど一度それは置いておく。ややこしくなるからね。(ただでさえ小難しいこと言うのにw)

 

これは個人の考えの範疇であって押し付けているわけじゃないという事は注釈しておくよ?

いま現状で「自分たちが出来る『楽しい』を今一度考えるきっかけ」になればと思っている。

じゃ、中の人のニワカ知識も交えて、いってみよう!!

 


まずは土壌をつくる。


  

おもちゃで遊ぶのが楽しいから人が集まる、という認識。

これが正しいか否か? という話ではなく、 結論として『楽しい』はこの流れ以外に存在しないのか?

 

そもそもの疑問はこれ。

 

おそらく大多数の人間は「面白いおもちゃ」を求めているのでは? と、私は見ています。

 

何度も言うけど、別にそれを否定しているわけじゃないよ? 楽しいおもちゃは楽しい! それは真理!

 

しかしですよ? 

そうなるとオンラインゲームは初期のころから賑わいがあったってのはちょっとおかしい話になります。

こんな風に言うとネット老人会と揶揄されそうだけど、

当時のゲームに今よりも高いアクション性と、今よりも高いゲーム性があったとは思えない。

ゲーム性でいえば今のゲームの方がやれることも可能性も大いにありますよね?

 

これをいうと最近のゲームはオンラインに限らず、その傾向は強いような気がします。

 

では今と、過去。どこに違いがあるのか?

 

ロートルなゲームの方が楽しかった? それとも年齢層? 人口数? それとも昔の人の方が知能が低かった? 

なーんて穿った見方をする人は多分いないと思いますが、

 

今と昔、比較をするならば『やれることが少なかった』というのが挙げられるかもしれません。

 

少ないがゆえに、人の興味が拡散しなかった。つまり、いまでいうところのシェア率が高い状態だった。

でもそれではロジカルには解決できませんよね? なぜならシェアが多い=楽しいではないからです。

え? って思うかもしれませんけど、『みんな知ってるから楽しい』って思いますか? という話ですね。

 

では、昔のオンランゲームは何が楽しかったのか??

 

人が集まって「何か同一のことをする」「共有する」「知ってると知らないのすり合わせがある」という共通認識

これがあったんじゃないか? そして少なからず仲間意識があったんじゃないかと分析できます。

 

昔のオンラインゲームには『楽しい』と『苦しい』が共存していて、

ユーザーはそれらを『共有』していたわけです。

 

こういう風に書くと、

 

つらいことがあったのにゲームをしているなんて頭がおかしい!😡😡

それが楽しいにつながるなんてわけわかんない!!😡😡

 

そう思われるかもしれませんが、実はここに鍵となる作用がありました。

 

それが心理学でいうところの、『均衡的互酬性』(きんこうてきごしゅうせい、って読むよ)です。

 

なにそれ??? ってなりますよね。わかってます。

こんな言葉をどこかで多分聞いたことがあると思うんですが、

 

『 楽しいことを分かち合えば楽しさ2倍、

  悲しいことを分かち合えば悲しさ半減 』

 

これですね。実際のところはもっと複雑。

特に悲しいことを半分にするではなく、そこに『互恵的利他行動』(ごけいてきりたこうどう、って読むよ)を片方が行うことによって

人間の信頼関係は強固になっていきます。

 

なにそれ??? ってなりますよね。(2度目w)

簡単に言うと、慰めたり、助けたり、そういう話です。

実際、自分がつらい時に助けてくれたり、傍にしてくれたらうれしいですよね?

逆にそう思ってくれないと「はぁ?😡」って思っちゃうのが人間だよね!

 

もちろん合う、合わない。これは世の中何処にでも存在するし、それが人間関係。

でも当時のオンラインゲームでは目的意識がそこにあって、同一に何かをして、そこに共有があった。

それは生活サイクル(就職や進学)が変わるまで続いたし、良くも悪くも彼らの思い出になったんじゃないか?

 

昔のオンラインゲームをやたら懐古する人、ネットでも多かったんじゃないかな?

現に旧PSO2とNGSでそんな感じになってる人、Twitterでも見かけますよね?

 

みなさんにとってのNGSは、そうなりそうですか? それとも、そういうのに興味がない?

そんなことないよ。違うから変えたいよ。違うと思ってるよ。違うと気づいてるよ。

 

なら、誰かと一緒に行動するしかないんじゃないかな?

そう考えるのです。

 

なので土壌としては、

まず近い目的意識を持つ人間をいかに集められるか?

 

ここに成功の大部分が集約されていそうです。

 

ならば喫緊の問題としてまずは仲間集め。

というより意識集めと言い換えた方が的確かもしれませんね?

 

 

 

近い目的意識とモチベーション

 

例えば、

一緒にいた人がゲームが上手かった。

ではその人と一緒にいることは楽しいか? 

 

コレにおいて「楽しい」と即答する人は、

自分にとって都合の良い条件を勝手に生み出して、勝手にないことを解釈をしがちです。

でもそれがとても大事です。なぜなら、そこにヒントがあります。

 

人間は勝手に自分に釣り合う条件を質問の中から構築してしまいます。

心理学ではバイアスと呼ばれるものですね。『認知バイアス』の単語を聞いたことがある方もいるでしょう。

 

別に引っ掛けでも何でもないんです。が、この都合の良い条件を今一度思い浮かべてください。

先ほども言いましたが、これがヒントです。自分が欲しいものです。

それを言語化してみてください。紙に書いてみるのもいいでしょう。

 

本音と建前が混ざり合うのはこの時ばかりはNGです。

素直じゃない人、見栄っ張りな人は無自覚に『建前』を入れがちです。

 

建前が条件に混ざると目的に辿り着いたとき、人間はとても苦痛になります。

でもそれは自分が他人に良く見られようと作り出した条件。

せっかく辿り着いたのにそれでは心は病むばかりです。

 

では逆に「違う」と即答した人。

その人は条件が最初から見えている人か、相当の天邪鬼ということでしょう。

 

別に性格診断をしているわけじゃないので、勘違いさせたら申し訳ない。

ここで大事なのは、

 

辿り着いた目的の先で「なんか、思っていたのと違う!」ってならないこと。

 

前段でも言ったけど、『合う』『合わない』というのはどうしてもある。

人間が複数入り乱れるのだから、個々の性格はどうしても出てくるし、

集団というのは考え方や捉え方が複雑に入り乱れるもの。

 

円滑に物事を進めるならお互いの考え、個性には一定の配慮がなければなりません。

 

もし、それが嫌。それを強制力を持って統一したい! というなら、軍隊化するしかない。

 

それがいいって人は、自分がそれを作るか、それをしている人を探すかです。

生中な労力ではないとは思います。

 

でも作ってしまえば自分はストレスフリーになる。見返りは大きい。

しかし、さっきも言ったように「なんか、思っていたのと違う!」となるならそれは徒労なのです。

 

こういった話は、問題を愉しめるかどうかがとても重要です。

企画者はその性質を漠然とでも理解していなければならないというのが私の持論。

人に求める話ではないかもしれませんね?

 

そしてもっと大事なことは、

どんな団体でも、集団でも、どんな立場でも、

他人をリスペクトする気持ちがなければ一体感は生まれません。

 

さて前置きはこれぐらいにして、

 

 

 

本題の近い目的意識とモチベーションの話。

 

団体が団体になるべくしてなった『目的』があります。

言語化できなくとも、理由はなくとも、それはあくまで当人たちが気付かずにいるだけ。

集団になった以上何かしらの理由があるわけです。

 

もしそれらしい理由がなく、

名前だけ所属してる状態で、

かつ集団と接点がなければ、

 

それは団体にいることの必要性を今一度考える起点になるかもしれませんね。

 

 

 

話を戻します。

 

理由、目的意識は団体や集団の中にあります。

目的をもって一丸となることで一体感を生みます。

 

物事の面白さには、達成によるカタルシスがどうしても必要なのです。

カタルシスとは抑圧からの解放、苦痛からの解放を指し示す言葉ですね。

 

例えば、

『恋愛は障害が多いほど燃える』といった古典的言葉があります。

たぶん物語などで一度は聞いたことがあるのではないでしょうか?

 

恋愛はともかく、人間はなかなか手に入らないものほど欲しくなります。

そして1を手に入れれば10が欲しくなり、10が手に入れば100が欲しくなる生き物です。

その行程が過酷であれば過酷であるほど達成による多幸感は強くなります。

 

集団においては、その多幸感を共有することができます。

人は自身の感情を知ってもらいたいと考えます。

それにより自分を表現する『感情トリガー』を持っています。

 

不特定多数に自分を知ってもらう、多幸感を共有する。これもまた多幸感に繋がるのです。

(ちなみにこの話は企業戦略やマーケティングなどで紹介される割と有名な研究結果)

 

そうなると、なんとなく見えてくるものがあるかと思います。

一度まとめてみましょう。

 

・集団には目的がある

・目的には達成によるカタルシスが必要

・達成には多幸感が伴う

・多幸感は集団で共有しやすい

 

これが集団が『集団として機能した場合』の機能概要です。

 

 

逆説的に解釈すれば、

 

一度動き始めてこの機能が一巡すると目的しか見えなくなります。

目的による達成に向けて集団は動きます。ここに足並みを合わせられない人はどう見られてしまうのか?

答えは単純です。排他的な動きを見せてしまいます。

 

簡単な例題です。

 

Q. 祭りの日。祭囃子や神輿などで賑わっている公道があるとします。

  その中でたった一人の中年男性が「うるさいからやめろ!!」と叫ぶとします。

  その一人はどうなるでしょうか?

 

集団には一体感という結束があります。

結束している以上、集団の中にいて結束しないものを許せないという意識が働きます。

いわゆる集団心理というものです。

 

では大前提として。これはゲームの集団の話ですね。

 

しかし大多数の人が大きく勘違いをする部分ですが、

蚊帳の外にいる人間が「たかだかゲームに何必死になってるの?」と、

嘲笑交じりに醒めたように言葉にしているのを見ます。

 

果たして一度動いた集団にその言葉は届くのでしょうか?

これが例題のもうひとつの答えです。

それはみなさんの胸の中に『確かにある』でしょう。

 

この項の最初に余談として、

素直に条件を並べた方が後悔しないという話をしました。

それはここに響きます。

 

そこで目的意識をすり合わせて、周囲と同じようにモチベーションを保てるならば、

きっと悩まなくていいし、周りも笑顔でいられるでしょう。

ですが『違う』と反逆しても例題の図式に代わるだけ。それは決して幸せなことではないのです。

自分も他人も嫌な感情に支配されるのはなんとなく見えている。そうではないでしょうか?

 

 


なぜグループなのか?


 

しかし私は、

軍隊のようなバチバチな集団を作りたいわけではないです。

 

あくまで単純な目的を達成するためのコミュニティーが欲しい、それだけなのです。

そのために100人、200人の大きなコミュニティーは必要ありません。

 

週末に最低8名+アルファの人数が欲しい。ただそれだけです。

もちろん賛同してもらえる人数が多ければ多いほど出来ることは広がるでしょう。

でもそれはまだまだ未来の話。

 

いまは飛ぶための準備すら覚束ない状態です。 

だからキャラクターの性能や個人の操作能力は全く求めていないのです。

もちろん目的に向かって努力をすることが前提なので、最初のうちはという話ですが。

それに新しく始めた人が賛同してくれれば、集団として刺激にもなります。

 

そういった人を交えて単純に同じ場所で、同じ時間を、同じ目的を立てて一緒にやりたい。それだけの話。

だからそれ以外の時間は自由であるべきと考えます。

 

そこには各々チームの活動やフレンドとの交流もあるでしょう。

プライベートな時間もあるでしょう。

そこの楽しみを奪うような話はしたくないのです。

 

ごく限られた時間、感覚としてはそれはジムや、クラブ活動のような嗜む程度でいいのです。

参加も強制ではないからこそ、『有志という形』をとり続けるでしょう。

 

誰かの目的に協力するし、目的に協力してもらえば感謝するでしょう。

 

「協力してくれてありがとうを伝える」そういうグループがいいのです。

 

しばらくはいろんな人に否定的な目を向けられるかもしれないけど、

まずははじめの一歩。せっかく賛同してくれる人がいるので、

せめてその人たちが楽しめるグループにしたいなと、今はただ目的に向かって動いてます。

 

 

長々と読んでくれてありがとね!

私は私で楽しいことを考えるので、何かあったら気軽に意見飛ばしてくださいね! 以上、中の人でした!

したらな!!